愛と見神の道
もちろん「どうしても相手の嫌なところが目についてしまう……」ということもあるでしょう。
それでも信じて、信じて、信じきって、相手の輝ける部分を見て、魂レベルの付き合いをするのが愛と見神の道です。
何万年と受け継がれてきて、僕が生まれてきたように。
一瞬たりとも同じ僕はいない それだけは忘れずに生きていたい
その一人一人が繋いで来た たすきを今僕は肩にかけた
昨日とは違う今日望んでも 向こうから 同じ色の明日が来ても
否が応でも 僕は違う 僕になれる
あの日叫んだ僕の声だって 忘れてなんかいやしないよ
あの日誓った再会もいつか 果たせるまで繋いでくよ
何万年と受け継がれてきて 僕が生まれてきたように
必ず僕も未来の自分に今までの僕 繋いでくよ
発酵。
人間が発酵を発明したのではない。
発酵が人間を作ったのだ。
―――――サンダー・エリックス・キャッツ
ほんとうに大切なものはすべて。
本書の不備は、読後にあなたが埋めてください。なぜなら、ほんとうに大切なものはすべて、「習う」のではなく、「気づく」ことでしか手に入らないからです。
過ちてはすなわち改むるに憚ることなかれ
子曰く、過ちてはすなわち改むるに憚る(はばかる)ことなかれと。
天下とともに潔く
孔子はこうおっしゃった。
「一身を潔く(きよく)するということだけなら、
たいしてむずかしいことではない。
むずかしいのは、天下とともに潔くなることじゃ。」
受け取ることで起動する利他
私たちは、他者の行為や言葉を受け取ることで、相手を利他の主体に押し上げることができる。
落語の本懐。
落語家は単なる「笑わせ屋」ではない。
「目的は別にある」。
それが「業の肯定」。
人間のどうしようもなさを肯定することで、
救いをもたらすのが落語だと言います。
伝え方は鍛えられる
人生の重要なシーンで成否をわけることなのに、誰も鍛えていない。もしくは「伝え方は鍛えられる」ことさえも知らない。一方で気づいた方にはとんでもなく大きなチャンスです。
死と太陽は直視できない。
人々は、しばしば過酷な現実や真実を直視しようとしない傾向があります。
死は受け入れがたい絶対的な真実であり、
太陽もまたその強烈なエネルギーや存在感から直視することが難しいものです。
太陽は直視できませんが、夕日は見ることができます。
悔いのない命を。
自分を知るためには他人を知らなくてはいけない。
周囲の人々と自分とを子細に比較省察してみて、
はじめて自分というものがくっきりと浮き出してくる。
自分自身に自分がはっきりとわかってくれば、
めったに、むやみやたらなふるまいはなくなる。
適宜な道が進める。進退そのよろしきを得る。
空間的にいえば、大宇宙を知り、地球を知り、自分を知らなければならない。
このようにしてはじめて、自分というものの空間的立場が、明瞭になってくるのである。
時間的にいえば、過去を知り、現在を知り、未来を知らなければならない。
このようにしてはじめて、自分というものの時間的な立場が、明瞭になってくるのである。
「人間は社交的動物」なり
相手相応の扱い方を知っている人でなくてはならない。
アリストテレスでなくても
「人間は社交的動物」なり、
という真意は誰にでも了解される。
広かるべき世界、楽しかるべきこの世界を、
みずから好んで、狭くし悩ましくしているのが、
世間の大多数の人たちだ。
人を毛嫌いしないことだ。話し相手は選ばないことだ。
お婆さんとでも子供とでも、
なんぞかんぞ話しておれば、この世は賑やかなのだ。
むかしの武士はたしかに、霊主体従であった。
実際、いまの人間は物質と精神との価値を転倒している。
金さえ 与えれば、
どんな精神的屈辱でも忍(しのぶ)
という世の中になってしまった。
そこへいくと、むかしの武士はたしかに、霊主体従であった。
少々の金を 倹約して、
大いなる精神的苦痛を忍んでいる人たちはずいぶん多いが、
実に本末転倒と 言わなければならない。
精神が主で、物質はあくまでも客である
ということがわからない連中が次第に多くなってきた。
むろん物質の厚薄が人の精神方面に影響することも大(だい)であるが、
しかし 人間は、心次第で物質を駆使する機能を与えられているのである。
こうして、はじめて真の人間としての生きがいを感じるのである。











