最近、みんなで写経をやっています。
そこでは、
みんなで、ひとつの本を決めて、
それぞれが、気に入ったページや、
好きな章や、日々反芻(はんすう)しておきたい言葉を
ノートや便箋に書いて、毎日シェアしていて、
2月、3月は、
料理人ちこ著 「いのちのごはん」を写経してます。
いま、テーマとして、
ライトダウン
(Light down、Write down)
を意識して、写経をしよう! と、活動してます。
とはいえ、光を降ろすってなんだろ?
と、疑問には思い、日々、問いてます。
この前、お風呂に入っているときに、
そのことを考えていると、
ふと、ある本の一節を思い出しました。
それは、西岡常一の本「木から学べ」のなかの一節。
西岡は、法隆寺の宮大工で、
晩年は、薬師寺の宮大工として、活動しておられました。
その薬師寺の西塔の再建のときに、
東塔の相輪(そうりん)の水煙(すいえん)の
デザインについて、こう語っていました。
「 東塔の水煙には、
笛を吹く天人がデザインされているが、
それは、天人が天にあがっていく姿ではなく、
天から舞い降りてくるデザインになっている。」
▼ 薬師寺 相輪の水煙
「 法隆寺の建築のときは
まだ仏教が日本にはいりたてて、
あまり、理解がされていなかった。
しかし、薬師寺を建設する頃には、
仏教というものが、定着して、
天武天皇が自分の皇后のために、
この薬師寺を建てようとしたときには、
〝天の浄土をこの地に移すこと〟を
意図したのだと思う。
それで、天女が地上に舞い降りている
というふうに表現したのだと思う。」
と、西岡は本のなかで述べてます。
(分かりやすくするために、ちょっと言葉はかえてますが。)
法隆寺は、学問の場で、
薬師寺は、信仰の場だと、西岡は言います。
信仰、というと、
神棚や、教会の前で、手を合わせて
お祈りをすること、
とイメージするかもしれませんが、
実際にはちがいます。
信仰の本質は、
この世界が、ひとびとがみな幸せに暮らせる
(仏教でいうなら)極楽浄土となるように、
日々日々、祈りと実践をすることにある、
ように思ってます。
ここでいう実践というのは、
祈りに基づいた行動のことというニュアンスです。
宮沢賢治でいうところの、
東に病気のこどもあれば
行って看病してやり
西につかれた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくていいといい
北にケンカや訴訟があれば
つまらないからやめろといい
ということです。
読書において言うなら、
本を読んでいて、良いな、と思ったことを
実際に、実践すること。
それが、
光を(本の内容を現実世界に)降ろすって
こと。
本を読んでいても、
良い話知れたなー、というので、満足して、
そのあと、実生活に、
なにも役立てなれてないこと、
僕はよくあります。
知識を得た高揚感や、満足感にひたるだけで、
なにも(本当の意味での)学びを得られていない。
そういう、
知識はあるけど、実践しようとしてない、
役立てていない状態のことを
僕らは、
「頭に知識が突き刺さった状態」
と表現してます。
頭で学んだ知識というのは、
身体を通して、実践して、
腑に落ちて、身について、
はじめて本当の学びとなりますよね。
だから、本を読んで、良いなと思ったことは、
少しでも、自分の生活にとりいれる。
それが、ライトダウンのひとつの意味だと思いました。
僕は、頭でっかちになりやすいところがあるので、
しっかり実践もしていきます。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!